「あり方」の呪縛


とつぜんの春雷とともに通り雨。このあたりではもう桜の咲いているのはあまりなく、かわいらしい濃い桃色の八重桜がときどき。並木道はどこもハナミズキが満開です。
ほーむぺーじをぜんぶあれしてしまった。じぶんのげんきがそちらへ向かなくなってしまい、とつぜん何も要らなくなる。でも消去するほどに愛着はなくならず、というか、消去のまえにぱそこんのどこかに保存しておきたくてそれが面倒で、またダンジョン行き。おきまりのパターン。広大なインターネットに浮遊する砂粒のようなちいさくてたくさんの、膿。吐瀉物。あれらは一体全体なんなのでしょうね。じぶんから出たものなのだけれど、じぶんではないような感覚。
ブログについて「だれが読んでもおもしろくしたい」と言うひとがあって、なんてすてきな心がけだろうとおもうと同時に、彼のブログが更新されるのをいつもたのしみにしていたじぶんに納得する。たのしいのだ、実際に。じぶんはメモや整理にしかつかっていない、だれかに語りかけるということをしてこなかった気がする。インターネットという場所でさえも。
一刻一刻を欝々と過ごす。ひとのことばを借りるなら、さながら「プールの監視員」。まっすぐな列から一寸はみ出した者に目をやる作業。時間の無駄とおもいつつ、強迫的にやめられぬ。自室に居ると、なぜこのような有様になってしまうのだろう。物がありすぎるのがいけないのか。ベッドの上から動けない。それに比べて車内はシンプルで随分といい。日もあたるし、健康的だ、アクセルとブレーキを交互に踏むくらいの運動しかしないけれど。自室も車内もそれぞれに重大な問題があるとおもうのだが、日があたるだけ車内の方がいくらかましか。いやそんなことないでしょ。などと独り問答しているあいだに、またきょうも一日の半分が過ぎていく。