真顔で病んだ事を言う

ウェディングドレスで莫迦な写真等撮ってみたいなあ。写真はいつも仕事でもそれ以外でも自分が撮る側なので考えた事もなかった。馬骨さんに、看板になりそうな画像を沢山見繕って頂いたのだけれども、自分ではあれしたりする技術がないので頂いたものをそのまま置いておくことにした。夜の寺社仏閣へ行くことはないですし屋外で全裸になる事など死ぬまでに一度もないと思いますが、沢山ありがとうございます。もしかしたら有名な画像もあったのかも知れないけれど、沢山出して頂いたうちの数枚は既に所持していて、いい所を突いて来て下さるなあと。この椅子のやつなんか凄いよ。
横芝を思い出してしまった。どんな言い方をしても心の病気を思わせる事しか言えないのだけれども、何と言うか自分の心にはこの、浜に打ち揚げられた屑、残骸、その澱みが不可欠というか、例えば自分の生き方だったり生きてきた軌跡だったりこの先の人生だったりを、想像して何かに例えるときに、ホンワカパッパしたお花畑とか、観衆の溢れる花道とか、険しくも心躍るジャングルとか、曲がりくねった畦道とか、そこまで想像力を発揮させなくても、何かあるじゃない。目を閉じたら自然浮かんでくる光景みたいなもの、港町で育った人は漁船だったり、田舎で育った人は稲穂や麦の畑だったり、そういう単純なあれでいいです。自分は、何をどうやっても波の泡だったりその泡の溜まる澱みだったりする。誰も、1ミリも理解出来ない話かも知れないけれどね。そして馬骨さんのそれはきっとしみじみするような古い昭和の民家と商店の路地なんだろうなあとか。勝手に。そのつまんない、何言ってんのこいつ的な、隙間を突いた写真だった。一生大切にします。
ちなみに画面右の方に貼りついている漢字の意味は調べましたら「きつく締まって固い」だそうです、意味や読み方がわからないのにこれを私に与えてくれたのはもう本能でしょう。いつか添い寝しましょう。


これを聞くと何故か、夜明け前に海の匂いを感じながら横芝の小さな街をドライブしている時を思い出す。澱みを求めて。